日本の中世の壺を抱いてお風呂に入る、という人の話を聞いたことがあった。古陶美術館の館長であるその人は、自らを「病気ですよ」と笑ったが、病は病でも恋の病なのだろう。
これは壺だから頷ける話であって、一緒に湯浴みするのが碗や皿や鉢では首を傾げる。かつては専ら生活雑器として焼かれていた壺が、他と一線を画する気がするのはなぜか。
少なくとも日本では、現代の壺は花入として以外、あまり用途を与えられなくなった。しかし、初めから美術品として生まれた絢爛たる壺と違って、焼締や自然釉の壺には、種や穀物、水や酒などを保存していた頃の働き者の名残りがある。
健気で素朴な用の器としての遺伝子を、いまもうちに秘めている気がしてならない。それが見る者、つくり手の琴線に触れて、好ましいと感じてしまうのではないだろうか。
森岡さんは壺の中に入りたいと願い、本松さんは粉骨砕身して壺に魂を込め、北村さんは壺そのものに同化しようとする。
器面には、土が薄く塗られている。塗られた土と壺本体の土が呼応し、赤く艶つやと光る。上部に被った自然釉(しぜんゆう)のなかには、薪を束ねるために使った藁が、熔けきらずチリチリと張りつき、不規則な模様を描いている。
西端も仕事の基本は、ものをつくることだという思いが涌いてきた。そしてそのことが、もの心ついた頃から自然に目にしていた器をつくることに結びついていく。
「一番下に輪積みするときに、でき上がりのイメージはあるのです。ところが、一段ずつ積んでいく作業を延々と続けるなかで、壺は自然にでき上がっていく。壺は、コントロールができないんです」
「静かで、迫力のあるものに惹かれるんです。信楽をやるなら、大壺をつくりたい」という保井にとって、大胆で豪快な作品を窖窯で焼く澤は、理想的な師だったのだろう。
黒蛙目(くろがいろめ)の水簸土(すいひつち)という、伊賀に特徴的な細かい土に信楽の土などを混ぜて変化をつけ、大壺ならではのふくよかな表情を出す。壺の正面には、冴えた緑色の自然釉が流れて筋をつくる。
でき上がった大きな壺をもち上げてみると、驚くほど軽い。三好は、土の紐を積んでいき、松の板で撫でたり叩いたりして締めている。それは、唐津の叩きの技法に近い。
富本憲吉――とどまることを知らない陶芸家>>
▲このページのトップへ